論文・レポートの問いだけ

日常の問いを集めました。

身体をケアすることへの意識に男女の差があるのはなぜか

子どもを持つ女性タレントたちが夫の愚痴を言い盛り上がるという内容のトーク番組を観ていた。タレントのうちの1人が、夫が子どもを風呂に入れた時、「出たよー」と言って呼ばれることに不満を漏らす。母親は「洗う・拭いて乾かす・服を着させる」までが「風呂に入れる」ことであると主張する。洗って濡れたままの体では、子どもが風邪を引いてしまうからだ。子どもを風呂に入れるのであれば、最後まで責任を持ってやってほしい、と。

子どもを洗うだけ洗って「風呂に入れる」任務を終えた気になってしまう父親は、「風呂に入れる=洗う」というタスクとしてしか認識しておらず、子どもが自らタオルで体を拭いたりドライヤーで髪を乾かしたりすることができないことまで認識していないし、そうしないと風邪を引いてしまう可能性にも想像力が及ばないのだろう。なぜ、母親は子どもが風邪を引く可能性を想像できるのに、父親はそれができないのだろうか?

身体のケアに対する意識の男女差は、子どもの身体だけでなく、自分自身の身体に関しても当てはまるかもしれない。

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勉強は「計画的」に取り組まなければ身につかないのか?

前に個別指導塾でアルバイトをしていたとき、担当している各々の生徒の「カルテ」を作成する業務があった。「カルテ」では、1学期の間にどこからどこまでの単元を取り組むか、何月にワークの何ページから何ページを解くのか、といった細かいスケジュールを立てる。それは、授業のコマ数に応じて料金を支払う保護者との面談で提示するために作られた。そして、そのスケジュールの大枠として、「長期目標」「中期目標」「短期目標」を設定する。長期目標は、〇〇高校合格など。中期目標は、学年末テストで〇〇点など。短期目標は、小テストで満点、学期末テストで〇〇点など。

この目標やスケジュールの設定の仕方は、とてもビジネスモデル的ではないか。不確定な未来を仮確定させる形で進めていく。小中高の勉強は、カリキュラムが決まっていて、1年間に勉強する内容が人によって減ったり増えたり変わったりしない。そのため、計画性を持って取り組めば、完璧に理解し定着させることができる、という理屈なのだろう。しかし、学ぶという行為において、一旦進むべき未来を仮確定させるビジネス的な時間感覚を持ち込むことは必ずしも良いといえるのだろうか?興味や好奇心の赴くままに学ぶことはしなくてよいのか?なぜ、塾において、ビジネス的な時間の思考法が持ち込まれることになったのか?「計画性」とは別の方法で、学校で勉強する内容を身につけることは不可能なのか?

「男女の友情は成立するか?」という問いが成立するのはなぜか?

「男女の友情は成立するのか?」という議論をよく見かける。厳密に言い換えれば、親密な友人関係にある男女が、性的な関係や恋愛関係になることなく、友人関係を継続することは可能なのか、という問いであろう。そして、それがしばしば成立しないからこそ、友人関係の段階にある男女に向けて、「どうせ今のその関係は継続されないよ」というメッセージを発する意味で、この問いが放り込まれるのだろう。この問いへの答えは、時と人と場合による、だと思うので、ここでは議論しない。

では、「男女の友情は成立するのか?」という議論は、なぜいつまで経っても議論され続けるのか。この問いはどういった人々によって議論されているのか。「男女」については議論される一方で、「同性の友情は成立するのか?」という問いが同じように向けられないのはなぜか。「男女の恋愛は成立するのか?」という問いが立てられない背景には何があるのか。